宗教行事、儀式など、総じて宗教的営みは、毎年日時が決まっていて、長年繰り返してきた恒例の行事であることが多いものです。それが今このコロナ禍によって、参加人数の制限、密を避けるための行動など、儀式自体の中止も含めて、簡略化、省略が再び目立つようになってきました。これらの行事、儀礼に携わる人たちはそれぞれ皆、難しい判断を迫られています。
気になるのはこの災禍のあと、どのようにそれらが再興されるのか、という点です。果たしてコロナ禍以前と同じに戻れるでしょうか。何もなかったかのように過去に戻ることはできないでしょう。既に、我々の日常生活は、元の状態に戻るのではなく、変化を先取りしてむしろ進化が進む、と以前から云われているように思います。しかし、その変化の先がどのようなものなのか。目指す理想に向かって進んでいるのではなく、気が付けばここまで来てしまった、となるのではないか。大きな不安があります。
私たち宗教者には、それぞれ受け継いできた営みがあります。先人が行い、私たちが受け継ぎ、そして未来の人たちに伝える営みです。その変わらぬ行為、同じ道、それが正しい道であると教えられています。正しい道は一個人が初めて切り開くものではなく、既に先人が歩んだ道です。釈尊はこの世で初めての仏陀ではなく、過去の仏と同じ道を歩まれたのであり、そして人々にその同じ道を歩むことを教えられたのでありましょう。
「あなたはこれからなる仏(当成の仏)、私はすでに なった仏(已成の仏)である」『菩薩戒経』と説かれています。そして、冒頭の文言は、ご本尊の前で最初に自己の懺悔を行なう際の一節です。
「先の仏のなされたように、私も今またそのように」
「如先仏所懺我 (にょせんぶつしょさんが)今亦如是(こんやくにょぜ)」
自分の進む道は過去の仏が進まれた道です。「私も今またそのように」。このことによって私たちは行き先をしっかり見据え、安心して進むことができます。人として正しい道は、生活がどんなに便利になろうとも変わらない。先人の行いに習い、その変わらぬ教えを守る。このことの大切さを、変化に翻弄されそうな人々に示すことが我々宗教者の勤めであるような気がします。
(WCRP会報2021年4月号より)